大人も「習い事」の時代

人は、いつかは自分の責任で生きていく必要があります。生まれてから成人するまで、あるいは学校を卒業するまで、私たちは誰かに育てられます。食べるもの、着るもの、学ぶことは用意されていたのです。

ですがやがて社会にでると、そのような「用意されている」ということはなくなります。自分がどのような仕事をするのか、何をして生きていくのか、何を武器にして、何を苦手として、どのような生活を送るのかということは私たち次第で、そこにはまず「自分を生かすための責任」が生じているのです。

たしかに、働きたいと考えていても、誰もが自分の好きな仕事に就けるというわけではありません。「仕事を得る」ということは人によっては「雇ってもらう」ということに等しいのだと思いますが、そのような「雇ってもらう」ためにはその裁量がある人に「認めてもらう」ということが必要です。働くということは知識だけで済むようなことではありません。そこには人としての意志、人間性などが相まって、社会人としての活動が形成されるのです。

大人として、社会人として生きていくためにはマニュアルのようなものはありません。自分の責任で、自分がやりたいように、ただ「生きられる範囲で」物事を考える必要があるのです。雇ってもらうのも、その後に仕事を頑張るのも、すべてが自分の責任になります。誰になにを言われたとしても、生活するために必要なお金は稼がなければいけませんし、やがては蓄財して自分の家族を守っていく必要もあるのです。

そのような責任を果たすための手段として、誰かに雇ってもらうという方法を選んだのだとしたら、まずはそこで「良い評価」を得るための準備が必要であることは間違いありません。雇ってもらうための評価は難しいもので、経歴や学歴を記した書類と少しの会話だけで判断されてしまうのです。

そのようなときに「資格」として人に対して「身につけている」と言えるようなことがあればとてもわかりやすく伝わります。「ノウハウを知っている」と言ったところで、その証拠がありません。「資格」とは、人に対して自分が持っている能力を伝えるために、それを表すために、とても便利なものです。

自分の「働くチカラ」、「人に認めてもらうチカラ」を強化するためにも、社会人になってからこそ、何か役に立つことを学ぶべきです。仕事に役に立つスキル、知識を有しているということを、それを表す「資格」で表現できることは武器になります。そしてそれが本当に使える資格であれば、自分が勤めている組織、関わっている仕事に対して本当に貢献できるものであれば尚良いのです。そのような資格を得るためには、独学もいいのですがどこかで体系的に学ぶのが一番効率的です。一般的には資格をとるためには最終的に「試験」が必要なのですが、そのような試験のために、その道のプロに教わることはとても有意義なのです。

責任ある「大人」であるからこそ、習い事が必要であることもあるのです。