私たちは産まれてからずっと学び続けます。やがて就学できる年齢に達すると、日中はずっと「学校」に通うことになります。成長して就職するまで、「学生」で居続けることになります。

ですが、学校での学びが修了したからと言って、私たちが「すべてを知っている」というわけではありません。世の中には膨大な知識があって、それのすべてを知るということはできないのです。世の中の知識にはさまざまなものがあります。人とコミュニケーションをとるための「言語」、人生を楽しく過ごすための「カルチャー」、時と場合をわきまえて、人に対して礼を逸しない「マナー」など、多岐に渡る知識が、私たちに知られることを待っています。

働き始めると、そのような知識のひとつがとても重要になったり、どうしても知らなければいけなかったりするもので、「なぜ学校では教えてくれなかったのか」と、歯噛みするようなこともあるのです。学校で学んだいわゆる「一般教養」は、なにが「一般」なのかわからないまま、忙しい日常に身を投じることになるのです。仕事をはじめてしまうと、日々自分の責任をこなすために必至になるでしょう。自分に課せられた責任、自分に課せられたタスクを完遂するために、必至になるのです。

そのとき「できないこと」というのは「自分の能力が足りない部分」という認識をするのが人で、それが自分の「限界」だと決めつけてしまうことは簡単です。自分の能力が足りないから、「できないことがある」から、自分は「ここまでなのだ」決めてしまえば、それは本当に「そこまで」になってしまいます。

「これができれば」、「あれができれば」、「これを知っていれば」、「あれを知っていれば」と嘆いても、それらのスキルや知識が身につくわけではないということです。学校で学んだこと、そして社会人としての経験を通じて学んだことをかき集めても、どうしても「足りないことがある」のであれば、そこから先に「どうするのか」ということで人の限界は変わるのです。

就職して社会に出たからといって、それが人の限界ではありません。それ以上なにも学べない、ということではないのです。私たちは自分自身の意志のチカラによって、そこから先、ここから先も新しい知識やスキルを身につけることができるのです。

そして、世の中にはそれを後押しするためのしくみがたくさんあります。「学びたい」、「修練したい」と考えている人に対して、世の中はさまざまな方法を提供しているのです。自分の限界を定めてしまうのは勝手です。学校を卒業し、社会人として羽ばたいているのであれば、そこから先は自分の責任です。なにをするにしても、どう生きるにしても、自分が足りないと感じたことがあるのであれば、学んでみるのはどうでしょうか。自分の可能性を広げるために、新しい可能性を手にするために、学ぶことをやめてしまってはもったいなのです。新しいことを知れば知るほど、その先の「可能性」が広がるのです。