自分の可能性を限定しないこと

新たな知識、新たなスキルを得るということは可能性を広げるということでもあります。「知っている」、「できる」ということは人の行動を広げるものであり、行動することによってそれまでは得ることができなかった「結果」が生じます。

人は生涯成長するものです。ただ、自分自身で「自分はここからここまでだ」という風に決めてしまうと、それ以上の可能性が得られなくなってしまうもので、それはそのまま自分が活躍できるフィールドを限定してしまうことでもあるのです。自分はここまでしかできない。だから自分はこれくらいしか稼げない。そのような意識を持った瞬間に、本当にそのようになってしまうから世の中というものは恐ろしいのです。

「高みを目指す」ことは誰にとっても必要なことです。「今よりも高いところ」、「今できないかもしれないけれど、ゆくゆくは目指したいところ」、未来にあるべき自分の姿というものを理解することができるのであれば、それが「可能性」です。可能性とは「夢」とは違う、もっと具体的なものです。自分が「こうあるべき」というカタチ、どうにかしてプロットを立てて、それを目指して邁進するためのものです。そのような自分の可能性を追い続ける人に、「成功」という「結果」が微笑みかけるのです。

自分の可能性は何かの拍子にいきなり「開ける」というものではありません。そして、だれかが用意してくれるというものでもありません。それは自分で用意するべき、自分で戦うためのものです。自分が納得して獲得するものなのです。そのための知識、スキルを身につけるための「習い事」だという意識があれば、時間がなくても、辛くても、それを「続ける」はずなのです。

誰の責任でもなく、自分の責任で自分を成長させるということが大人の責任です。自分のために投資し、自分のために自分の時間を使う。それが社会人に許された特権です。

これが「子ども」の可能性になるとまたハナシは別です。子どもがやがて見出す自分の「道」というものと、保護者が求める子どもの理想像は必ずしも合致しているものではないということです。ですから、そのようなことに対しても「限定する」ということは危険です。子どもがどのような将来を望むのか、子どもがどのような道に歩みたいのか、それが「どうなってもいい」ように、あらゆる可能性を用意してあげるのが保護者の役割というものではないでしょうか。

どちらにしても共通するのは「限定しない」ということです。「ここからここまで」という具合に限定してしまうと、「本当にそのとおりの結果しか得られない」ということです。「ラッキー」などということは基本的には無いというスタンスを基本にすべきです。自分の道は自分の能力で切り開くしかなく、その能力が足りないのであれば、「見につければいい」ということなのです。それが人生の鉄則、成長するために必要なことなのです。習い事はそれをサポートするために存在しているのです。